A. Omissi, Emperors and Usurpers in the Later Roman Empire : Civil War, Panegyric, and the Construction of Legitimacy, Oxford: Oxford University Press, 2018.

Omissi, Adrastos, Emperors and Usurpers in the Later Roman Empire : Civil War, Panegyric, and the Construction of Legitimacy, Oxford: Oxford University Press, 2018の第1章を読んだ。

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ローマ皇帝権力の継承にまつわる問題は簒奪を通じてのみ適切に理解できる。コンモドゥス暗殺(192年)~ウァレンティニアヌス3世即位(423年)までの西部では内乱のない10年間はなかった。西部における皇帝権力消失後の東部でも内乱は決して消えなかった。そもそも皇帝権力はその出発点からすでに簒奪された権力だった(アウグストゥスによる事実上の独裁政確立)。ユリウス=クラウディウス朝を通じて権力は継承、ネロの死による断絶。軍団兵が事実上の皇帝選出母体、69年の内乱がそれを証明。セウェルス朝までの皇帝の継承過程の概説、マクシミヌス=トラクス即位(235年)をいわゆる「3世紀の危機」の開始とみなす通説。帝位継承システムが崩壊、その原因は皇帝権力の変質だけでは説明できない。

 

・なぜ帝位継承システムが混沌に陥ったのか。原因1、過剰な帝位候補者の存在。男性は軍団兵の支持さえあれば皇帝を名乗れる。原因2、帝国行政運営における元老院の影響力低下。彼らが帝位を認める権威であるという通念の薄弱化。原因3、政治的中心としてのローマ市の重要性低下。属州の大都市でも政治的中心になりうることが3世紀以降常識に。原因4、帝国領のあまりの広大さ、それゆえの中央統制の有効性低下。原因5、皇帝の行動を規制する法的手段の欠如。原因5、皇帝位そのものに内包された三つの反乱誘因、①最善・最良の人物が皇帝であるべきという観念(失格者の排除を正当化する論理)、②正統なる継承を証明する客観的指標の欠如(レガリアのような)、王朝理念の脆弱性、③複数皇帝制の受容。以上のような状況は帝位継承システムの柔軟性ではあったが、危機の時代には負の面を露呈した。

 

・ローマ人は簒奪をどう定義したのか、また本書ではどう定義すべきか。実はローマ人は「簒奪」を定義しなかった。それは支配者の正統性と非正統性を定義しなかったのと同じであり、彼らはある支配を倫理的な言葉で定義した(善政か暴政か)。アウグストゥスは事実上の独裁者でありながら共和政の理想を建前とし、自身の権力がローマ人全員の同意に基づくものであることを強調。ウェスパシアヌス以降は兵士たちがローマ人の代表者として権力を委ねる相手を選出するという観念が浸透。『ローマ皇帝群像』「三十人の僭主たち」における兵士たちの皇帝選出母体としての機能と自意識を当然とする作者の考え。アンミアヌスの叙述でも常に兵士たちが皇帝の選出に立ち合う。この点で正統な皇帝選出と簒奪は区別不可能。また、ローマ人の政治思想は上述のように皇帝を倫理的観点から評価。しかもそれは皇帝の死後に回顧的にのみ可能、それゆえ「簒奪」は常に敗者に対するレッテルとなる。ただし、4世紀を通じて"tyrannus"という言葉の意味に変化が見られる。すなわち、対抗者に敗れその名誉が回復されなかった皇帝。その言葉に本来込められていた倫理的意味合いと、より客観的な指標に基づく形容との境目が曖昧になる。ただしそれは敗者を貶め現在の皇帝を称揚するというイデオロギーの産物。例えばコンスタンティヌスを簒奪者と呼べた人はいなかった(筆者はそう論じる)。筆者はまずモムゼンに倣い、「正統性」はローマ皇帝権力には無関係であり、帝国民が彼の権力を認めるかどうかが彼に支配の正統性を与えた、とする。そして「簒奪」は二つの面から定義される。1)ある皇帝の支配中にその同意表明なくして自身を皇帝と名乗った場合。2)皇帝を殺して、あるいは殺害に関与して権力を掌握する場合。ただしこの定義は帝位継承時にのみ妥当し、またローマ人のものではないことに注意。

 

・ローマ帝政期における「簒奪」については先行研究が少ない。帝政前期を対象とするFlaigの研究は元首政期の皇帝権力の本質を、軍団・元老院ローマ市民衆の同意に基づき与えられる権力という結論を導く。帝政後期については1984年にWardman論文とElbernの博論、後者は先駆的だが史料批判に欠ける。1996年の論文集が帝政後期の簒奪に関する諸側面を扱い、Szidatが研究の集大成としてモノグラフを刊行(2010年)。しかし簒奪のあり方に注目する反面、同時代人の見方や史料における「簒奪」の扱われ方はあまり取り上げなかった。英語圏では個々の簒奪(皇帝)に関する研究蓄積があり2014年にはContested Monarchyも刊行、しかし避けて通れないのは「記憶の断罪」の問題。本書の問題関心に大きく関わる現象にもかかわらず、帝政後期のdamnatio memoriaあるいはmemory sanctionに関する十分な研究が無い。研究は主に視覚史料(考古・美術、特に彫像)に基づいて進められてきたので彫像破壊が第一の関心に、しかしそれではmemory sanctionの多様性が軽視され、またプロセスの破壊的側面のみが強調され、作り直しという側面が軽視される。帝政後期のmemory sanctionに関する研究が必要。