松本宣郎(1985)「ギリシャ・ローマと初期キリスト教における宗教寛容 ‐P. Garnseyの報告から‐」『東北学院大学キリスト教研究所紀要』3, 27‐50頁。


ピーター・ガーンジィの報告「古典古代における宗教寛容」を手がかりとして、ギリシャ、ローマ、ユダヤ教キリスト教における宗教寛容の内実を問う論考。ガーンジィ(以下G)はまず、「寛容」という概念を、「倫理上の、又は政治上の原則の利害から好意をもちえない人々に対して敵対的行動をとることを意図しようとせず、かつかかる行動に賛同しないこと」と定義する。従来、古典古代の異教(非キリスト教ユダヤ教)徒は寛容、非キリスト教とは非寛容と言われてきた。しかし、史料を見直すと、異教が上述のような寛容概念を持ったことはなく、逆にキリスト教側が寛容概念を主張したこと、しかし4世紀以降にその概念を失ったことが見て取れるという。
ギリシャ・ローマ社会の人々は、各共同体ごとに多様な神々が存在することを認めていた。それゆえ、他の共同体の神々に対して人々がどのような態度をとったかが問題となる。ギリシャの場合、とりわけ史料の豊富なアテネにおいては、不敬虔・冒涜に対する処罰事例が見られる。これらの事例は、ペロポネソス戦争後の危機の時代に集中している。かの哲学者ソクラテスは、新しい神々を導入し、青年を汚染したとして自死を強要された。しかしながら、彼の周囲に反民主政的・異端的人物がいたことも、処罰の背景として見逃せない。また、アテネでは在住外国人に彼ら自身の神々への崇拝が認められていたが、その前提として、彼らの祖国とアテネとの良好な関係が必要であった。結局、Gにとって、ギリシャ・ポリス、少なくともアテネにおいては宗教と政治が不可分であり、宗教・政治のレベルでアテネは不寛容であった。
他方、ローマは、一般に外国宗教・文化を寛容に受容していったと考えられているものの、そこには留保が必要である。なぜなら、ローマは外来の神々を、evocatioないしexoratioと呼ばれた儀式を通じて、彼らに利益をもたらすローマ風の神々へと変質させた上で初めて受容したからである。またローマは異国の祭礼、特に密儀には疑いの念を持っていた。もっとも、個々の宗教を名指しで禁止する法律のようなものはなかったので、騒乱が生じることのないかぎり、それらの祭礼は黙認されていたが。
注目すべき事例はユダヤ教である。ローマはユダヤ人に、納税義務と引き換えに彼らの儀式実践を許可した。一見して宗教寛容の事例に見えるこれもしかし、ローマにとっては、ユダヤ人という民族集団と政治的盟約を結んだに過ぎない。また、ローマにあってもやはり、宗教寛容と政治状況は密接に絡んでいた。
古代世界における宗教寛容論を開拓したのはキリスト教護教家であった。テルトゥリアヌスは迫害の不当性を訴えるなかで、人にはそれぞれの宗教を信じる自由があることを訴える。その百年後、ラクタンティウスも同様に、信仰の自発性、迫害の不当性、キリスト教と異教との対話の必要性を訴えた。Gはここに、古代世界としては最高レベルの宗教寛容、宗教の自由という観念を見出す。ところがこのような姿勢は、キリスト教迫害の終結にともなって失われてしまう。ミラノ勅令を発してあらゆる信仰の自由を保証したコンスタンティヌスも、じきに異教・異端に対する迫害に着手した。すると今後は、異教側から宗教寛容を訴える人々が現れるも、彼らの主張が受け入れられることはなかった。
こうしてGは、ギリシャ・ローマ社会が総じて外からの宗教には不寛容であったこと、宗教寛容という問題意識は芽生えたものの育たなかった、と結論する。そして最後に、これまで取り上げてきたエリート層における寛容論ではなく、一般社会における内実に触れている。民衆は、支配層が期待するよりももっと不寛容か、あるいは寛容かのいずれかであった。民衆レベルにおいては、ユダヤ人やキリスト教徒との共存関係が存在していたのである。
以上のGによる報告に対し、著者松本は、Gが宗教寛容に関連する史料を洗い出した点を評価しつつ、残された、あるいは新たな課題を指摘する。古代全体に関わる問題としては、古代における「宗教寛容」を、古代人が持っていた宗教観念に即して解釈する必要性がある。ローマについては、共和政から帝政へという、支配体制の時代的変化を考慮に入れなければならない。また松本は、キリスト教史家として、ローマ帝国キリスト教との関係、特に不寛容・迫害の側面を明らかにするための諸論点を指摘する。
1)キリスト教徒に対する不寛容な扱いの原因としての、反共同体的・反社会的団体という異教徒側の認識。
2)一般民衆と帝国当局の間の、キリスト教徒に対する寛容度のずれ。
3)帝国当局は、キリスト教徒に対しては原則としては厳しく、現実の対応においては寛容であろうとした。
4)ローマ人の側からキリスト教の不寛容性を指摘したケルソスの論議のなかに、逆にいかなる条件を満たせばローマ人は他宗教を許容したか、という論議も見出せる。
5)キリスト教会内正統派による異端排撃が強調される傾向があるが、対話・討論を通じての正統教義確立の試みがなされたことを見落としてはならない。