志内一興「属州ヒスパニアの形成、「ローマ化」とヒスパニア先住民: コントレビア碑文を手がかりに」『史学雑誌』110 (2001), 563‐585頁
http://ci.nii.ac.jp/naid/110002365350/

目次)
一 問題の所在
二 ローマ―ヒスパニア関係史
三 コントレビア碑文
  (1)ケルティベリ語の碑文
  (2)前87年頃の状況
  (3)エブロ川流域
  (4)turma Salluitana
  (5)C. Valerius C. f. Flaccus imperator
四 ヒスパニア先住民相互の動的関係
結び

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【一】本論文は、エブロ川中流域ウエルバ川沿いの地ボトッリータで1979年に発見された青銅板ラテン語碑文(通称「コントレビア碑文」、前87年)の分析を中心に、ヒスパニアにおける「ローマ化」概念についての再考を試みる。コントレビアは碑文が発見された地の古代名であり、当時はケルティベリ人なる人々が住んでいた。
【二】ローマとヒスパニアの関係史をこの碑文から見出そうとする前に、まず「ローマ化」に関する研究史を振り返らなければならない。従来の「ローマ―ヒスパニア関係史」は、ローマ帝国という存在の大きさを過大評価し過ぎてきた。Richardson(1986)はこれに一石を投じ、現地ではローマ中央(元老院)よりも現地司令官の個々の対応が重要であり、ヒスパニアの当時の状況をつぶさに検討する必要性を訴えた。考古学的データの蓄積も研究を助けてくれる。さらには、「ポストコロニアル批評」の影響から、「ローマ化」は地方ごとに多様であったという共通理解がある。
【三】コントレビア碑文はローマ法制史の分野でいち早く考察されてきたが、さらなる考察の余地がある。
(1)では、同じコントレビアから発掘されたケルティベリ語碑文の年代から、前87年時点では同市では主にケルティベリ語が用いられていたと考えられる。そのような状況でラテン語碑文が刻まれたことの意味は何か。
(2)では、前2世紀以降のエブロ川中・上流域の軍事的状況を概観する。ローマ側の叙述史料に基づくならば、この時期この地方は、ローマと現地住民との衝突、あるいは外敵の侵入に起因する大きな混乱を経験していた。
(3)では、コントレビア碑文に登場する人々の名前から、エブロ川流域における文化の多様性・交流を確認する。
(4)は、まずポンペイウス・ストラボ(大ポンペイウスの父)による市民権付与の青銅板碑文(ILS 8888; CIL I2 709)を取り上げる。騎兵小隊turmaに属するヒスパニア人たちの名前は、turma Salluitanaすなわち「サルドゥイエ人の騎兵小隊」のタイトルのもと列挙されている。この小隊は「サルドゥイエ」の地で、同盟市戦争の期間(前91〜89年)に編成されたと考えられる。この時期ヒスパニアの総督であったのはウルバヌスと、「コントレビア碑文」にも登場するウァレリウス・フラックスであった。フラックスは上述騎兵小隊の編成に深く関わったはずである。
(5)コントレビア碑文では、フラックスは"imperator"として言及される。この表現は、当時のエブロ川周辺におけるフラックスの圧倒的権力を示唆している。この時期のコントレビアは、母集団たるケルティベリ人がローマの敵対集団とみなされるという状況のなか、フラックスによって、他共同体との係争の審判人に指名される機会を得る。コントレビアはフラックスの存在を公に宣伝することで、必死の生き残りを図ろうとした。
【四】リウィウスとアッピアノスによれば、前2世紀ヒスパニアマルクス・ポルキウス・カトは、ヒスパニアの住民から武器を取りあげ、城壁を破壊させた。このことは現地住民にとっては、他集団との衝突において無防備になるという死活問題であった。彼らにとってはローマ以上に、現地の他集団との衝突のほうがはるかに重大な関心事であった。彼らは目前の状況に応じて一つ一つの選択を積み上げていくほかなく、その複雑な過程を通して、徐々に「ヒスパニア属州」が形成されていった。
結びでは、ローマからの視点ではなく、現地住民の視点に立って属州史を語ることの必要性が主張される。とはいえ、ミクロな視点からだけでは当然バランスを欠く。今後の課題は、ローマを中心に据えたマクロなローマ帝国像と、地方都市を中心に据えたミクロな属州像のバランスを取って、当時の人々が経験した「ローマ帝国」の姿を追究することである。