小アジアの二言語併用碑文
・志内一興「小アジアにおけるギリシア語・ラテン語併用碑文:社会言語学的考察の試み(2006年度歴史学研究会大会報告 いま,歴史研究に何ができるか:マルチメディア時代と歴史意識) (合同部会 前近代におけるメディア)」『歴史学研究』820 (2006)、142–150頁。
近年の碑文研究において注目されるのは、「社会言語学」的手法の応用によって、多言語的背景を持つ人物が残したテキストから、彼が生きた社会、彼のアイデンティティを探ろうとする試みである。例えば、エジプトのオクシュリンコスから発見されたある嘆願書パピルスは、大部分ギリシア語で書かれながら、日付と署名部分のみラテン語で記されている。しかも、ラテン語部分にギリシア語が混じっているという不自然さである。おそらく嘆願者の母語はギリシア語ないし当時のエジプトで一般に話されていたコプト語であり、彼は可能な限りラテン語を用いることで、自身のローマ的素養を誇示し、嘆願書に箔付けしようとしたのだろう。彼は三言語が混在する社会で、支配者たるローマ帝国を意識しながら生きていた。
本稿が注目するのは、ローマ支配期の属州アシア(小アジア地方)である。この属州において製作された二言語碑文は155点を数え、論文筆者はそれを四つに類型化する。第一に、定型句のみが別言語のもの。第二に、ギリシア語がラテン文字で刻まれたもの。第三に、二言語が混合して用いられているもの。第四に、基本的に同内容が二言語でそれぞれ記されたものである。本稿が特に注目するのは第四の類型である。これらの碑文を詳細に分析すると、実はラテン語版とギリシア語版の文章に微妙な違いが見られる。ラテン語版に記されていた人の身分を示す情報が、ギリシア語版では省略される傾向があるのである。その理由は、逆にギリシア語版にしか記されない情報を見ることによって明らかになる。ローマ帝国権力に捧げられた碑文では、ギリシア語版において、自らの都市が同一属州内の他都市よりも格上であることを示す称号が付加されていた。奉献者たちは、ラテン語を用いてローマ権力への敬意を示し、またローマ権力との親密さをアピールした。それと同時に彼らは、ギリシア語話者である近隣諸都市に向けて、自分たちの優越性をアピールしたと考えられる。つまり、彼らは想定される読み手に応じて言語を選択し、それによって伝えたい情報を選択していたのである。
「社会言語学」的手法の多言語碑文への応用は、以下の知見を与えてくれる。第一に、碑文製作者は言語選択を通じて自身が属す、もしくは属したいグループを選択していたこと。これは、アイデンティティの選択に他ならない行為である。第二に、碑文製作者は想定される読み手に応じて言語を使い分けていたこと。このことは、碑文製作地の言語状況に関する有益な手がかりが得られる。また最後に、「属州」あるいは「属州民」は、ラテン語を自己主張のための一有効手段として「利用」していたことも指摘されうる。