論文メモ:P. Van Nuffelen, The Name Game

Van Nuffelen, P. (2009). The Name Game: Hellenistic Historians and Royal Epithets. In P. Van Nuffelen (Ed.), Faces of hellenism: studies in the history of the Eastern Mediterranean (4th century B. C. - 5th century A. D.) (pp. 93–112). Leuven.

 

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 Contents:
(intro.)/ Polybius, his predecessors, and his contemporaries/ Possidonius and early imperial historiography/ King lists/ A changed perception of epithets/ Conclusion

• 本論文の問い:現在の歴史家たちがヘレニズムの王たちを呼ぶために用いるroyal epithesの起源はどこか? 個々のあだ名の由来ではなく、特定の人物を指し示すために特定のあだ名が歴史家によって選ばれ、受け入れられていったその理由は?
• それぞれのあだ名はある都市から奉られたり(例:アンティオコス2世「テオス」)、君主礼拝のために後継者によってつけられたりした(例:セレウコス朝のアンティオコス3世による)。しかしそうしたいわば「公式の」あだ名が後の歴史叙述によって採用されるとは限らなかった。先行研究で問われてこなかった、歴史家たちによるあだ名の採用とその方法に注目することで、歴史叙述の方法の変化の反映をそこに見出すことができる。その変化はポリュビオス前後で明らかに区別でき、ポリュビオスよりも後の歴史家たちは非公式な「王名表」を史料として利用しており、それがローマ時代にまで引き継がれてくことになる。その結果、王たちが自ら政治的意図を込めて名乗ったあだ名は無視され、特定の活動(しばしばフィクション)に結びついたあだ名が用いられるようになっていく。


ポリュビオスの歴史叙述のうち、現存する重要部分は紀元前220年から前146年までを扱う。ポリュビオスの特徴は、ヘレニズムの王を呼ぶ方法が定まっていないこと。例えばセレウコス1世が「ニカノル」と呼ばれるのは一度だけ。ただし例外的に、アンティオコス3世だけは常に「メガース」付きで呼ばれる。プトレマイオス朝の王たちはセレウコス朝よりもあだ名つきで呼ばれることが多い。アンティゴノス朝も同様。ポリュビオスのこうした方式が反映するのは同時代の慣習、すなわちプトレマイオス朝著作家たちがその王たちを君主礼拝で用いられた名前で呼ぶ。しかしポリュビオスが用いなかった方法として、王たちの名前に「2世、3世…」と数を付して呼ぶやり方があった(1世だけは父親の名前を冠して)。これに対しセレウコス朝の王たちは、アンティオコス3世まで君主礼拝がなかったため、あだ名がつけられなかった。そして何より、ポリュビオスにとっては同時代の王たちにあだ名をつける必要性は感じられなかった。


ポリュビオスとそれ以降での変化はディオドロス=シクロスから読み取られる。彼はポリュビオスとポセイドニオスをそれぞれ史料に用いており、前者から後者への主史料の交代が明白にあだ名の使い方にも反映。ポセイドニオスではあだ名の使用がかなり常態化(当たり前に使う)、しかも王の名前ではなくあだ名だけで呼ぶことさえある(例えばプトレマイオス6世は「フィロメトル」とだけ呼ばれる)。ディオドロスがポセイドニオスを用い始める33巻以降、ヘレニズム諸王はあだ名付きで呼ばれるようになる。つまり、あだ名が王の名前の一部として認識され、特定の王を指示する機能を持ち始める。さらに、ポセイドニオスはプトレマイオス朝の王について、その数とあだ名を共に含むリストを持っていたと推測される。


ポリュビオス後の変化を示すもう一つの事例はマカバイ記2・3(前1世紀後半)、アンティオコスを「エピファネス」や「エウパトル」などと呼び分ける。ポセイドニオスのやり方は帝政期の歴史家にも受け継がれ、アレクサンドリアアッピアノス(後100年頃)はおそらく王の世(代)の数とあだ名の双方を含むリストを使用。そして彼の特徴は、個々のあだ名の由来・起源譚を常に説明すること。しかしこれらの説明は常にその王の特定の行動に結びつけられるために、事実としてはありそうもないあだ名も含まれる(例えばアンティオコス4世エピファネスの場合、アッピアノスは簒奪者からの王位防衛(前175年)をあだ名の由来とするが、実際には前173年からそう名乗っていた形跡がある)。またもしユスティヌスがポンペイウス=トログス(アウグストゥス時代)の忠実な要約者であるならばポンペイウスも同様の傾向に属する。このように、ポリュビオス後の歴史叙述は、特定の王を指し示すためのあだ名をかなりシステマティックに利用するようになっている。その背景にあったのは、第一に王のリストの存在、第二にあだ名の性質の変化(名に代わる)、第三に起源譚への関心の高まり。第三の傾向はローマ時代のあだ名のつけ方の反映かもしれない(軍事的成功に関連したあだ名)。


• ヘレニズム時代後期には王のリストが存在、歴史家たちの共通資料だったかもしれない。それらはそれぞれのヘレニズム諸王国で役人によって編纂されたリストではない。そのことは明らかに「非公式」なあだ名の存在からわかる。おそらくそれらはヘレニズム時代後期の歴史家や年代記作家によって作成された。このことは彼らが何らかの公的な資料を参照しなかった、ことは意味しない。参照したかもしれないし、そうでなくとも君主礼拝由来のあだ名を用いたりもした。とはいえ、この想定に確固たる裏付けがあるわけではないことにも注意。


• ヘレニズム時代後期にはあだ名の性質、人々によるその扱い方も変化した。あだ名が名前の一部として認められ、本来の名前に代わって用いられるようになる。この変化は同時に、王のあだ名の増加、神聖さの強調傾向と一致。アンティオコス4世は初めて複数のあだ名を用い(テオス=エピファネス=ニケフォロス)、プトレマイオス8世はエウエルゲテースそしてソーテールと名乗った。そしてまたあだ名が公式の記録(文書・貨幣)で利用されるようになった。こうした名乗る側の姿勢の変化が時間をおいて歴史叙述に反映されるようになる。しかし歴史家たちはそうしたプロパガンダをむやみに受け入れたのではなく、広く知られたあだ名のほうを好む場合もあった。ヘレニズム時代末期の政治的混乱が王のあだ名にも反映、過去や神とのつながりを求める支配者の意向。歴史家にとっては次々と出現する同名の王たちを区別するのにあだ名が便利。