ストラテギウス・ムソニアヌス

手ごろな長さの論文を読もうと思ったら、その論文が別の論文に対する批判論文だったので、結局二本読まなければならなくて涙目な孔明の罠。4世紀前半、コンスタンティウス2世に仕えた官僚であるストラテギウス・ムソニアヌスなる人物についての論文を二本。

一本目:J. W. Drijvers, "Ammianus Marcellinus 15. 13. 1-2: Some Observations on the Career and Bilingualism of Strategius Musonianus", The Classical Quarterly, New Series, 46.2, 1996, 532-37.
(「アンミアヌス・マルケリヌス15巻13章1-2節:ストラテギウス・ムソニアヌスの経歴と二言語併用に関する諸検討」)

ストラテギウスについての主な史料はアンミアヌス著『歴史』の15巻13章1-2節で、「マニ教徒」を取り調べるという目的を持ったコンスタンティヌス大帝により彼が取り立てられたこと、また彼の二つの言語、すなわちラテン語ギリシア語を操る能力によって重用されたことが伝えられます。そして、カエサレアのエウセビオス著『コンスタンティヌスの生涯』3巻62章に保存されたコンスタンティヌス大帝からの書簡にストラテギウスなる人物の名前が見え、従来この二人は同一人物だと考えられてきました。

しかしこの論文の著者であるDrijversはその想定に反対し、この二名は別人と考えます。その根拠は、コンスタンティヌス大帝の書簡ではストラテギウスなる人物は、大帝がマニ教徒を敵視する(330年代とDrijversは推定)以前、都市アンティオキアで起きたキリスト教徒の分裂を収めるために書簡を送った時点(326年)から大帝に仕えていたように読めるため、アンミアヌスの説明とは矛盾することです。さらにDrijversは、マニ教徒の取り調べにラテン語は不必要であると考えて、アンミアヌスに現れるストラテギウスはアラム語ギリシア語のバイリンガルであったか、あるいはラテン語ギリシア語とアラム語を用いる能力を持っていた、と論じました。


二本目:D. Woods, "Strategius and the 'Manichaeans'", The Classical Quarterly, New Series, 51.1, 2001, 255-64.
        (「ストラテギウスと『マニ教徒』)

Drijvers論文に対する批判です。Woodsは従来説通り、アンミアヌスとエウセビオスに現れるストラテギウスは同一人物と考えています。そのヒントとなるのは、アンミアヌスの言葉遣いにおいて、「マニ教徒」は異端を宣告されたキリスト教の一派を示すという解釈です。こう考えると、アンミアヌスに述べられているマニ教徒の取り調べとは、アンティオキアにおけるキリスト教会分裂の取り調べを指しているとみなすことができ、さらにはストラテギウスのアラム語能力を推測する必要もなくなります。


史料の解釈が深まったことで批判が可能となった例ですね。DrijversとWoodsは共にアンミアヌス・マルケリヌス研究を手がけているので、しっかりフォローしなければ。