論文メモ:後藤「シドニウス・アポリナーリスにおけるローマニズム」

後藤篤子「シドニウス=アポリナーリスにおける『ローマニズム』」『史学雑誌』91 (10), 1982年、1-39頁。

  

目次

1.はじめに

2.シドニウスにおけるガリカニズムの限界

(1)ガリカニズムの高揚

(2)ローマニズムへの止揚

3.ローマニズムの高揚

4.司教シドニウスにおけるローマニズム

(1)ローマ帝国との決別

(2)ローマニズムの固持

5.結び

  • 5世紀ガリアに生きたローマ元老院貴族にしてクレルモン司教シドニウス=アポリナリスの理念をその著作から、当時の歴史的状況と絡めて読み解く。まず、456年1月に岳父アウィトゥスのコンスル就任(前年皇帝即位)を祝う称賛演説は、疲弊したローマ帝国を救う存在としてガリアを位置付ける。それはイタリアに代わってガリアを伝統的ローマ理念の主導者に位置付ける試み。しかし同年中にリキメルとマヨリアヌスの叛乱、アウィトゥスは敗北し間もなく死去。シドニウスはガリア貴族層と新たな指導者擁立を模索するが、457年にはマヨリアヌス即位、シドニウスは458年末のリヨンで彼に称賛演説を献呈。

  • アウィトゥス後の新皇帝擁立の企てにシドニウスが参加したかどうか。学説史を踏まえた上で後藤は、シドニウスはその企てに直接は関与しなかったと結論。そしてマヨリアヌス称賛演説からは、シドニウスがマヨリアヌスのなかに新たなローマ世界の救済者を見出し、その「ガリカニズム」(ここではガリア待望論的な意味合い)は容易に「ローマニズム」に変化していたことが読み取られる。ところがマヨリアヌスは461年にリキメルにより廃位される。さらにガリアにおける西ゴート勢力の伸長にあって、ガリア貴族層は467年に即位したアンテミウス帝に期待を寄せる。

  • シドニウスのアンテミウス帝称賛演説からは、王朝理念への不信感、実力者リキメルに対する隠れた非難、そして西ローマ帝国救済のための東西協調の訴えが読み取られる。468年には元ガリ道長官アルウァンドゥスと西ゴート王エウリックとの政治的共謀が発覚、シドニウス含むガリア貴族層はこの動きに対しローマ帝国擁護を表明。ゲルマン勢力に対するシドニウスの態度は書簡から読み取られ、それは明らかにローマをゲルマンの上位に位置付ける。彼にとって両者を分けるのはラテン的教養の有無であり、それこそがローマニズムの中核。さらに帝国官職就任はローマニズムを体現するための義務として捉えられる。

  • 460年代後半のさらなる西ゴート勢力の伸長、オーヴェルニュ貴族層は断固抵抗姿勢を維持。シドニウスは470年頃クレルモン司教就任、元老院身分貴族の司教就任の当時の傾向を反映。クレルモンはシドニウスとその義兄エクディキウスを指導者として対西ゴートの包囲戦に突入、475年のローマ帝国と西ゴートとの和平交渉まで持ちこたえた。しかしその和平によってオーヴェルニュは西ゴート王国に割譲される。シドニウスは自らが信じてきたローマ帝国への悲憤慷慨を書簡で露わにした。この事件によって、彼はローマ帝国と決別した。

  • シドニウスは一時幽閉されるが476年に釈放、西ゴート宮廷で一部所領の権利回復のため活動、エウリック王にも称賛演説を献呈(これは阿諛追従)。しかし彼自身はアンティゲルマニズムを隠し、ラテン的教養を最後のローマニズムの体現として保持。さらにRomanitas の擁護者は帝国からカトリック教会へ変容、貴族としてのアイデンティティの拠り所は帝国官職ではなく聖職へ変化。シドニウスはラテン的教養とカトリック教会の聖職への奉仕をRomanitas の拠り所として保持し続けた。