文献メモ:Curran, Pagan city and Christian capital, Ch. 3

Curran, J. R. (2000). Pagan city and Christian capital: Rome in the fourth century. Oxford: Clarendon Press,Oxford University Press.

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Ch. 3 Constantine and Rome: The Context of Innovation (pp. 70-115)
Introduction (pp. 70)/ 1. Constantine and the centre of Rome: October 312 (pp. 71-75)/ 2. Constantine and the destruction of the memory of Maxentius in the centre of Rome (pp. 76-90)/ 3. Constantine's Christian buildings in Rome (pp. 90-114)/ Conclusion (pp. 114-115)

Introduction (pp. 70)
• いわゆる「コンスタンティヌスの回心」は重要なテーマだが、その「回心」後もキリスト教の振興が最優先されていなかった点に注意が必要。以下ではコンスタンティヌスの建築事業を詳細に分析することで、彼の関心がキリスト教以上に前政権の断罪にあったことを示す。とはいえキリスト教の影響が全くなかったと言いたいのではない。その景観への影響も検討する。

1. Constantine and the centre of Rome: October 312 (pp. 71-75)
• 通説ではコンスタンティヌスは異教徒の反発を恐れて市内中心部に教会を建設しなかったとされているが、これはコンスタンティヌスキリスト教信仰および、キリスト教徒ならば中心部に教会を建設するはずだ、という根拠のない想定に基づく説。そうではなく、コンスタンティヌスが実際に都市の中心で何をしたのかに目を向けるべき。重要な活動は二点ある。第一に儀礼、第二に建築。ここでは儀礼を扱う。
• 312年10月29日にコンスタンティヌス軍はローマ市の北からマルスの野を経由してフォロ=ロマーノへ。勝者として最大限に印象付けるべく行列は工夫され、マクセンティウスの首が掲げられていた(主史料は『ラテン語称賛演説』12(9))。パラティヌスを掌握したのち、コンスタンティヌスは市内各所で元老院や民衆との政治的交流を行なった。しかし現存史料にはユピテル=オプティムス=マクシムス神殿への参拝に関する言及がない。アルフェルディはコンスタンティヌスが供犠を行ったはずと考え、ストラウプは逆、パシューは折衷案、フラスケッティは記録消去説。Curranは史料批判を行ない、ラクタンティウスやエウセビオスが言及するはずはないとする。問題はコンスタンティヌスの入市が凱旋式だったのか否か。凱旋式ならば最後にユピテル神殿に参拝するはず。『称賛演説』作者の用語は決め手にならない、この時代には入市式adventusの儀礼凱旋式に見立てられていたから(MacCormack 1981, 34ff参照)。コンスタンティヌスの勝利門の東端フリーズは凱旋門ではなく入市式の光景。『フィロカルス暦』も10月29日をadventusの日とする。また、そもそもマクセンティウス打倒後のわずかな時間で凱旋式を挙行できたとは考えづらい。従って312年10月の行列は入市式だったと考えられる。コンスタンティヌスユピテル神殿で供儀を行なったかどうかは不明、行なったとすればそれは凱旋将軍ではなく他の資格、たとえば最高神祇官として実践しただろう。

2. Constantine and the destruction of the memory of Maxentius in the centre of Rome (pp. 76-90)
コンスタンティヌスの次なる課題はローマにおけるマクセンティウスの記憶を貶め、彼の治世の正統性を断罪することにあった。そのために彼がとった方法はいくつかあり、例えばマクセンティウスの残存兵力・近衛軍団は解体、セウェルス朝以来のequites singularesの基地を破壊。さらに文献史料からはマクセンティウスの血統の正統性を貶め、彼を暴君、コンスタンティヌスを解放者とするプロパガンダの痕跡が読み取られる。またコンスタンティヌス像のキリスト教的解釈も施された(グレゴワール説の参照)。ローマ市内にはコンスタンティヌス像がいくつも建立され、それらは軍旗を携えていた(これをエウセビオスは「救い主のしるし」すなわち十字架と書き換えたが、ルフィヌスは実際にローマを訪れて像を見ている)。これらはコンスタンティヌスの軍事的勝利のプロパガンダ。これらは312年から313年の秋冬にかけて急速に実施された。
コンスタンティヌスはマクセンティウスの建築を破壊せず、自身に対する奉献物に変更することで対応(アウレリウス=ウィクトルの一節が実は唯一の重要な典拠)。建築の破壊はローマ市に対する懲罰を意味することになり不適切だったから。マクセンティウスのバシリカが大改修されたのは確実だがその程度と理由は不明確。マクセンティウス時代から皇帝の巨像が設置されていた可能性があり、もしそこでローマ市長官が法廷を開催していたとすれば巨像の存在意義は重要(コアレッリ説)。またバシリカ近くのいわゆる「ロムルス神殿」もコンスタンティヌスに再奉献された。キルクス=マクシムスの拡張はマクセンティウスが郊外に新競技場を建設したのに対し、市内・伝統の重視をアピールする意図。またコンスタンティヌス浴場はパラティヌス丘のマクセンティウス浴場とは異なり、おそらくもっと住民が利用しやすい場所を選んで建設された。
コンスタンティヌスの最も有名な建築は勝利門、おそらく312年の入市式から間もなく着工し315年夏の二度目のローマ市訪問までに完成。アッピア街道から入る訪問者はマクセンティウス奉献のウェヌスとローマ神殿、バシリカの前に勝利門を目にすることになる。勝利門の彫刻の材料はほぼ他の記念碑からの再利用、そこに何らかの意図を見出すことは難しい。勝利門に掲げられた碑文の解釈をめぐって議論があり、奉献者である元老院ローマ市民のコンスタンティヌスの信仰する神の無理解という説、太陽神信仰を表している説がある。だがこれらの説は碑文テクストにのみ注目しており、勝利門全体を考慮していない。図像の分析からは多様な神々があらわされていることがわかる。ともあれこの勝利門で重要なのはコンスタンティヌスをマクセンティウスに対する勝者、ローマ市の解放者として描くこと。神々に関しては特に太陽神と月神が強調。
• まとめ:コンスタンティヌスローマ市中心部を伝統にのっとり、皇帝プロパガンダ儀礼の場として利用したのであり、異教に対する妥協と考える理由はない。

3. Constantine's Christian buildings in Rome (pp. 90-114)
コンスタンティヌスが建設した教会建築については膨大な研究史があるものの、その建築事業の理由と建設地の選定理由については明らかになっていない。彼が市内の中心部で行なった建築事業と同様に、教会建設に関してもキリスト教共同体に対する公的イメージ宣伝の意図があった。
• The organization of building (pp. 91-93):ローマ市での建築事業がどのような過程で実施されたのかについてはほとんどわからない。『教皇列伝』はシルウェステル、マルクスらの要請を記しており、東方でのコンスタンティヌスの建築活動は確かに聖職者の要請から始まっているので、ローマでも同様だったかもしれない。実際の建築事業については、マクセンティウスの名が押されたレンガが利用されているので事業規模と速度は相当だったと考えられる。また330年代の法令では建築技術者の養成が奨励されており、コンスタンティヌスがかなり熱心に事業を実施していたことがうかがえる。
• The Lateran (pp. 93-96):コンスタンティヌスはマクセンティウス旗下の近衛軍団、equites singulares部隊を解体。後者の基地はカエリウス丘にあった。同じ地区には1世紀に国庫に没収されたDomus Lateranorumといわゆる「ファウスタのドムス」(コンスタンティヌスとの結婚前に所有)があり、それらすべてが彼のものになった。おそらく312年、彼はこの土地での教会建設を決意。奉献と聖別をめぐる日時については議論があるが、ある史料を根拠に312年11月9日に着工と考えられる。少なくとも、コンスタンティヌス治世初期に属することは確実。その使用意図はローマのキリスト教徒の儀礼集会に加え、キリスト教会に対するコンスタンティヌスの支援を宣伝することだった。この土地の選定理由は、第一にコンスタンティヌス所有であり、第二に貴族の高級住宅街に近く(ヘレナもこの地の宮殿を好んだ)、第三にマクセンティウスの痕跡を抹消できるから。こうして建設されたサン=ジョヴァンニ=イン=ラテラノは、最初の巨大なキリスト教会として重要な意義を持った。
• The Via Appia (pp.97-99):アッピア街道沿いの建築事業については『教皇列伝』に言及がなく、コンスタンティヌスの介入可能性が浮上したのは20世紀初頭の発掘による。4世紀初めにはウィッラと墓廟が立ち並び、そのなかにペテロとパウロの殉教者聖堂memoriaがあった。4世紀に大規模な改築、聖使徒のバシリカと呼ばれるようになり、しかしのちにサン=セバスティアーノ教会と名前が変わる。他の建築物と比較してこの建物は非常にコンスタンティヌス的。だが建設年代に議論があり、コンスタンティヌスやその息子たち、さらにはマクセンティウス着工の可能性すらある。それゆえ今後の研究の進展を待つしかない。
• The Via Labicana (pp.99-102):ラビカナ街道沿いの建築事業に関しては議論がある。マッジョーレ門から3.3キロ地点。遅くとも2世紀にはキリスト教徒のカタコンベがあり、皇帝の邸宅もあった。コンスタンティヌスはU字型バシリカを建築。また周辺の土地をヘレナが取得。重要なことは、マクセンティウス時代までこの地域はequites singulares部隊の墓が立ち並んでおり、コンスタンティヌスはそれらを一掃したうえで建築事業を実施したらしいこと。またバシリカには320年代半ばに円蓋墓廟が増築され、ヘレナの墓となった。皇帝の兵士たちの墓はキリストの兵士の墓に変化した(させられた)。
• San Lorenzo fuori le mura (pp.102-105):現存する建物は6世紀後半と13世紀に建設されたバシリカを回収したもので、ルネサンス期以来の発掘によりコンスタンティヌスのバシリカの上に建設されたと考えられている。『教皇列伝』にコンスタンティヌスによる建設が言及、殉教者ラウレンティウスを記念。地下には大規模な墓地が存在。もともとは「大バシリカ」と呼ばれる建築物があり、ラウレンティウスの墓地とは別で、その後(コンスタンティヌスあるいはその直後)に墓地の直上に小バシリカが建設された。おそらくラウレンティウスの墓へのアクセス改善と記念が建設の目的。加えてこの一帯は皇帝領で、ティブルティーナ街道に隣接する利点があった。ラテラノ大聖堂とは建築規模やレイアウトが異なるものの、コンスタンティヌスの敬虔と施与は共通。
• San Paolo fuori le mura (pp.105-109):7世紀の『教皇列伝』著者によればコンスタンティヌスはオスティア街道沿いにパウロを称えるバシリカを奉献。しかし信憑性に疑問があり、クラウトハイマーは後代の挿入とみなす。考古学的証拠も少ない。バシリカは4世紀末にテオドシウスにより建設、祭壇が墓の上に建設されており、この墓廟は一説には1世紀後半にさかのぼる。Curranはコンスタンティヌスによる建設説を否定。
• Saint Peter's Basilica: Old Saint Peter's (pp. 109-114):サン=ピエトロ大聖堂はコンスタンティヌスがローマで手掛けた最大のキリスト教建築で、唯一の十字型バシリカかつ既存のmartyriumを包摂。彼は明らかにペテロの地位を意識していた。その建築事業は治世後半に開始されたもの。バシリカはキリストの勝利を象徴しかつコンスタンティヌスの勝利をも同時に象徴。またコンスタンティヌス死後も息子たちにより増築。母ヘレナも黄金の十字架を奉献。サン=ピエトロはキリスト教信仰の表明のみならず、コンスタンティヌスの軍事的勝利と王朝プロパガンダの表象でもあった。

Conclusion (pp. 114-115)
コンスタンティヌスの個性を新時代の到来と結びつけるのは短絡的すぎる。彼の信仰心の表象物たる建築事業は、同時に強い政治的意図に対応していた。特にマクセンティウスの痕跡抹消。ラテランその他でのバシリカ建設はキリスト教信仰に加え墓地建設という利点があった。興味深いのは彼がパウロ信仰にあまり関心を示していないように見えること。彼にとってキリストは救世主、ペテロが使徒、自身はこの世の責任を負うキリストの勝利の代弁者だった。