テオドシウス帝の登位

5月15日にブログを始めた際、論文を一本読んだ、と書いてそのままにしておいたのですが、
放置したままではあんまりだと思ったので、今日はその論文について要約&思ったことを。


Errington, R.M.,"The Accession of Theodosius I",Klio, 78, pp.438-453, 1996.


テオドシウス帝というと、主に「キリスト教国教化」あるいは「ローマ帝国の東西分割」という
キーワードで語られることの多い皇帝ですが、この論文の目的はテオドシウス帝の即位にまつわる
いくつかの問題点を解明することです。


まず著者は、テオドシウスが皇帝に任命される直前まで故郷に隠遁していたとされる通説を否定します
(テオドシウスは同名の父親テオドシウスが反乱の罪を着せられ処刑されたのちにしばらく隠遁していました)。
たとえば、ギボンによる『ローマ帝国衰亡史』では:

「結果グラティアヌス帝による白羽の矢は、まもなくある追放者の頭上に落ちた。ところが、
その人物の実父というのはついこの三年前に、帝自身の権限によって不当かつ恥ずべき処刑を受けた
ばかりの人物だったのだ。」(ちくま学芸文庫中野好夫訳『ローマ帝国衰亡史』第4巻、273頁)

ローマ帝国衰亡史〈4〉西ゴート族侵入とテオドシウス (ちくま学芸文庫)

ローマ帝国衰亡史〈4〉西ゴート族侵入とテオドシウス (ちくま学芸文庫)


また塩野七生さんによれば:
「グラティアヌス帝は、スペインに密かに人を送り、テオドシウスを連れて来るよう命じたのである。」
(新潮社刊『ローマ人の物語XIV キリストの勝利』247頁)

ローマ人の物語 (14) キリストの勝利

ローマ人の物語 (14) キリストの勝利

しかしこれらは5世紀の教会史家テオドレトスによる作り話で、テオドシウスは実際には皇帝となる378年以前に
すでに軍団指揮官として復帰していたとErringtonは述べています。それは376年に中央政界で起こった、政治家
同士の政治抗争の結果でした。テオドシウスの父親に罪を着せた人々が、今度はその罪を別の人になすりつけて
失脚させ、その過程でテオドシウスを呼び戻した。そしてのちに皇帝を選ぶときになって、何人かの候補者のうち
テオドシウスが最高の適格者だった、というのがErringtonの主張です。


感想としては、推論が多かったり、恣意性があるのでは?と疑いたくなる部分もあるのですが、
前半部のテオドレトス証言の否定については今のところ納得できています。後半部でのテオドシウス選出理由の
考察については、やはりその軍事的資質が重視されているようですが、僕はこの辺りに疑いをもっています。
今はまだその疑いがしっかりとした形になっているわけではないので、何とも言えないのですが…