「目」のはなし

先週は久しぶりの大雪でした。晴れ間に外出した方は、雪の照り返しがまぶしくて目が痛かったのではないでしょうか(僕はそうなりました)。そんなことを考えていたら、読んでいた本に偶然、古代人の「目」に関する考えに関する記述を発見し、面白いと思ったのでご紹介。

まずは「歴史の父」ヘロドトスについて。




ヘロドトスはその歴史書を著すにあたって、自ら地中海世界を旅し、目で見たものと耳にしたことを記録したそうです。その際「見たこと」が第一に優先され、それを補ったのが「聞いたこと」でした。(上掲書54-5頁)。全ての物質の源は火であると考え、「万物は流転する」の言葉で有名なヘラクレイトス(ただし、この言葉自体は後世に生まれたもので、ヘラクレイトス自身が述べたものではないそうです)は次のように考えました。


「われわれには、すべてを聴き知ったりそれらと関わりを持ったりするための、言わば器官に(原文ママ)ようなものが、本性的に二つ備わっている。視覚と聴覚がそれであるが、ヘラクレイトスによれば、断然信頼するに値するのは視覚の方である。すなわち『目は耳よりも正確な証言者である』」。
ヘラクレイトス著作断片101a、内山勝利訳、『ソクラテス以前哲学者断片集第一分冊』岩波書店、1996年、338頁)

ソクラテス以前哲学者断片集〈第1分冊〉

ソクラテス以前哲学者断片集〈第1分冊〉

ヘロドトスも同様に、視覚が聴覚よりも信頼に値すると考えていました(『歴史』第一巻八章)。また、古代人が目を大切にしていたことが、次の史料から察せられます。

「羊皮紙は最初は黄色つまりサフラン色のものが作られていたが、後にローマで純白のものが発明された。だがこれはよくないことがわかった。汚れやすいし読者の視力を損なうからである。経験豊かな建築家は、図書館には金張りの羽目天井を造るべきでなく、床にはカリュストス産の大理石以外の材料を用いてはならないと考えている。金の輝きは目を弱めるし、カリュストスの大理石の緑色は視力を回復させるからである。」
(セビリャのイシドルス『語源』第六巻11章、兼利琢也訳、『中世思想原典集成』第五巻後期ラテン教父、平凡社、1993年、529頁)


後期ラテン教父 (中世思想原典集成)

後期ラテン教父 (中世思想原典集成)


現代では白いほど上質とされますし、床が緑色の大理石製になっている図書館にもお目にかかったことはありません。古代と現代の違いを感じます。金張りの天井はさすがにどうかと思いますが。