論文メモ:Salzman, Constantine and the Roman Senate
Salzman, M. R. (2015). Constantine and the Roman Senate: Conflict, Cooperation, and Concealed Resistance. In: M. R. Salzman, M. Sághy, & R. Lizzi Testa (Eds.), Pagans and Christians in Late Antique Rome (pp. 11–45). Cambridge: Cambridge University Press.
Contents
(intro)
Part 1: Constantine's Visits to Rome in 312, 315, and 326
Constantine in Rome in 312/ Constantine in Rome in 315/ Constantine in Rome in 326
Part II: Was Constantine Actively Working to Christianize Rome's Senatorial Aristocracy through his Appointments of Urban Prefect?
Avianus Symmachus on Constantine's Urban Prefects/ Constantine's Appointments of Urban Prefects
Part III: Senatorial Powers and Freedom of Expression
The Senate/ The Resident Senatorial Aristocracy
Conclusion
・研究史上、コンスタンティヌスとローマ元老院の関係はさまざまに解釈されてきた。第二次大戦後はキリスト教徒皇帝と異教元老院の対立が強調、1980年代以降は対立ではなくローマ元老院のキリスト教徒化、他にもコンスタンティヌスの「改宗」を政治的打算とみなし、それゆえにローマ元老院とは対立しなかったという説も。加えて、宗教それ自体は争いの原因とはならなかったという見方もある。
・研究史の争点は三つに分類できる。争いの原因、キリスト教化における皇帝の関心、元老院・元老院議員が公に意見を表明できる力。しかしこれらの問題にはそれぞれ誤解に基づく点があるため、個別に検証しなければならない。特に元老院の政治的立場について。第1章ではコンスタンティヌスの計3回のローマ市訪問、第2章ではコンスタンティヌスによるローマ市長官の任命、第3章ではローマ元老院の政治的力を検討する。
・まとめより:政治に限られた影響力のみを持つ元老院とローマ市在住の元老院貴族はコンスタンティヌスに進んで協力した。コンスタンティヌスはキリスト教徒ではあったが、ローマ元老院貴族の改宗よりも彼らの忠誠により大きな関心を持つ、現実主義支配者だった。彼による古くからの伝統ある家系出身者(含むキリスト教徒)のローマ市長官任命は、彼の政権に対する支持獲得のためだった。元老院の側にコンスタンティヌスに対する反感がなかったわけではないが、それを公に表明するほどの力は彼らにはなく、コンスタンティヌスにとってもそれらを無視するのが得策だった。
・第一部の議論:312年のコンスタンティヌスの勝利とそれに続くローマ入市。称賛演説は元老院が直ちに彼を支持し称賛したとするが、コンスタンティヌスのキリスト教信仰の表明は少なからず当惑を与えたはず。また彼はマクセンティウス支持者を罰し、イタリアとローマに対する土地税を復活。コンスタンティヌスの勝利門にキリスト教的表象が欠如しているのは、その建造を主に代行したのが元老院だったからだろう。326年の彼のローマ訪問時、祭儀の欠席ゆえにコンスタンティヌスが元老院と民衆の憎悪を買ったというゾシモスの伝承の信憑性は低い(民衆からの罵詈雑言はあったとしても)。
・第二部の議論:アウィアニウス=シュンマクスのエピグラムで言及されるコンスタンティヌス治世の5人のローマ市長官について、彼らがキリスト教徒だったかどうかを分析すると、否定的な答えが得られる。彼らに共通するのは伝統と富裕。さらにコンスタンティヌス治世のローマ市長官で名前の判明している20人中、キリスト教徒であった可能性があるのは3人だけで、蓋然性が高いのは2名だけ。うち詩人でもあったオプタティアヌスはかつてローマ市から追放されるもコンスタンティヌスへの嘆願が功を奏し帰還、その要因は彼の信仰にあったかもしれない。もし彼の追放が元老院によるものであったならば(元老院議員同士の対立による)、彼の帰還は敵対者にとっては不満を覚えるものだっただろう。いずれにせよコンスタンティヌスによるローマ市長官任命は元老院議員の行政手腕に期待してのことであり、元老院のキリスト教化を目的とするものではなかった。
・第三部の議論:ローマ元老院は3世紀を通じて政治的影響力を失っていった(皇帝のローマ不在のため)。元老院を権力基盤とするマクセンティウス支配下、コンスタンティヌス治世初期には政治的影響力を増したが、帝国行政においては微々たるもの。皇帝との距離が離れるに従い、元老院は独立性を増す(プラエトル、クアエストル任命権の獲得)。皇帝の神格化は元老院の決定事項、コンスタンティヌス死後もそう決議。しかしながらコンスタンティヌスはコンスタンティノープルに埋葬、エウセビオスによればローマ元老院と市民はこの知らせに衝撃を受けていた。彼らにとってローマ市は皇帝が埋葬されるべき地で、コンスタンティノープル埋葬はその伝統的考え方をないがしろにする行為。それでも元老院は故皇帝を神格化した。このように組織的な反対表明が困難な状況では、個人での反対はさらに難しく、匿名でようやく可能な、しかし危険な行為だった。