論文メモ:R. Chenault, "Beyond Pagans and Christians: Politics and Intra-Christian Conflict in the Controversy over the altar of Victory"

Chenault, R. R. (2015). Beyond Pagans and Christians: Politics and Intra-Christian Conflict in the Controversy over the altar of Victory. In M. Sághy, M. R. Salzman, & R. L. Testa (eds.), Pagans and Christians in Late Antique Rome: Conflict, Competition, and Coexistence in the Fourth Century (pp. 46–63). Cambridge: Cambridge University Press.

Contents:

(intro)/ Damasus and the Altar: A Review of the Evidence/ Damasus and Roman Senators/ Damasus and his Christian Rivals/ Damasus and Jerome/ Conclusion

 

・いわゆるウィクトリア女神祭壇論争について、この「事件」(近年はアンブロシウスによる「論争」の創出という見方が支配的になりつつある)におけるダマススの関与についてはあまり検討されてこなかった。だが、彼に注目することでこの事件に関するローマ司教たちの煮え切らない態度を明らかにできる。本章はこの事件を「異教徒」とキリスト教徒の間の対立ではなく、ローマ市キリスト教共同体内部のものとして捉えなおし、それによってダマススがこの事件を教会内での自身の地位の確立に利用したことを明らかにする。

 

・この事件についてはすでに382年からローマ元老院がグラティアヌスに働きかけを試みていたにもかかわらず、ダマススは383年まで何ら行動を起こさなかった。加えてキリスト教元老院議員も384年まで祭壇への助成再開の嘆願を問題とした形跡はない。しかもダマススは384年にはまたしても動かなかった。元老院からの嘆願使節が382年末~383年初に派遣されたとすれば、当時のローマ市長官はキリスト教徒アニキウス=アウケニウス=バッスス。ところが彼とダマススのあいだには、ルキフェル派司教だったエフェシウスをめぐる緊張があった。もしこれがダマススによる元老院嘆願への反対行動の原因だとすればつじつまがあう。384年のローマ市長官シュンマクスはある告発をめぐりダマススから支援を得ている(『報告書』21番)。同時にこの事例はローマ市キリスト教共同体内部の対立をも語る。ダマススの敵対者だったウルシヌスとその一党がローマ市を追放されたのちもダマススに対する嫌がらせ・敵対行為は継続(Collectio Avellanaとアンブロシウス書簡が主史料)。加えて北アフリカのドナティストがローマに派遣した「司教」やルキフェル派の聖職者らとの対立もあった。

 

・382年のヒエロニュムス到来は新たな対立の火種となった。彼の到来ののち問題は教会内の政治対立から教義論争へ移行、さらに彼が着手した聖書の翻訳事業はアンブロシアステルのようなローマ教会内の伝統主義者からの反感を買った。ともあれヒエロニュムスはダマススのお墨付きを得て、ローマ市で禁欲主義振興運動、独身の奨励を開始する。彼の唱える結婚反対論はふつうのキリスト教徒にとっては当惑を覚えさせるものであり、ある人にとっては異端的にさえ感じられた。このテーマに関する論争と並行して、384年夏に元老院は嘆願の使節を派遣した。結婚をめぐる論争は異教徒元老院議員にとっても周知のものであった一方、祭壇をめぐる論争がローマ市キリスト教徒の注意を引いた形跡は見られない。同年秋にエウストキウムの姉ブレシッラがヒエロニュムス指導の禁欲修行中に亡くなり、彼に対する非難が巻き起こる。その数週間後に異教徒元老院議員プラエテクスタトゥスが死去。シュンマクスの書簡は市を挙げての彼に対する公的服喪を伝えるが、逆にヒエロニュムスはそれを苛烈に批判。Carmen contra Paganosも同じ背景で著された諷刺。その作者や発表の背景については不明なものの、おそらくキリスト教徒にとって共通する敵対者のイメージを反映している。プラエテクスタトゥスの死は、キリスト教徒が禁欲主義をめぐり敵対していた時期に、共通の敵を提示するための便利な道具とされた(cf. Curran, Pagan city, 269-98)。Cameronは近年、この詩の作者はダマススその人だと主張。だとすると、この詩と祭壇論争への介入は同じ動機、すなわち著名な異教徒元老院議員に対する抵抗に基づくと考えることができる。それによって彼はローマ司教としての指導的地位を強化しようとした。