せんだい歴史学Cafe 第45回放送

昨日のせんだい歴史学カフェ第45回放送にて、「クマ買う人々 〜元老院議員シュンマクスの憂鬱〜」と題しておはなしした内容を、カットした部分も含めてアップします。参考文献については、「せんだい歴史学Cafe」の該当ページもご参照ください。


 一昨年の9月、第24回放送では、ローマ時代にクマが見世物として闘技場に連れ出されたということに触れたのですが、その時には、クマがどのようにして捕まえられて、どのようにして連れてこられたのか、という話をすることができませんでした。今日はそのことについての話です。
 ローマ時代の見世物の一つに、ウェーナーティオ、野獣狩りと呼ばれるものがありました。ライオンやクマ、トラといった肉食獣から、あるいは象などの獣をアリーナに引き出して、ある時には野獣同士、ある時には剣闘士と野獣、またある時には罪人と野獣の組み合わせで戦わせるというものです。この見世物は前100年頃から確認されるのですが、ある時点から剣闘士競技と一緒に開催されるようになり、紀元1世紀の初めには剣闘士競技の前座として催されたと考えられています。有名なところでは、初代皇帝であるアウグストゥスは、自らの治世において全部で26回の野獣狩りを開催し、およそ3500頭の野獣が殺された、と伝えられています。

 では、そうした見世物の犠牲になった野獣たちは、どのようにして調達されたのでしょうか。それらの獣は人間に育てられていたわけではなく、基本的には野生で、捕獲されて連れてこられたのだと考えられます。紀元後3世紀の詩人オッピアノスの『猟師訓』という叙事詩には、アルメニアとティグリス河流域での話として、クマ狩りのやり方が記されています。スライドで大意を示します。これによると、猟師たちはまずクマの巣の周りに仲間を埋伏させて、少し離れた場所に予め干し草と網を広げておきます。この網の両端には二人ずつ、木の枝で姿を隠して寝そべる猟師がいます。それから、網の左側の人は綱を持ち、巣を見張っている人との間に渡します。この綱には羽と様々な色のリボンが吊るされていて、獲物を怖がらせる効果があるとされていたそうです。網の右側では、別の仲間たちが、岩の隙間に隠れるか、葉っぱで身を隠しています。準備ができ次第、ラッパを吹き鳴らしてクマを巣から追い出し、若者たちがクマを追い立てていきます。猟師たちはクマを上手く誘導し、網に突っ込ませます。その瞬間、網の両端に伏せていた者が綱を持って引っ張り、網の口を閉じる。これがクマ狩りのやり方だというのです。クマはその後足枷を嵌められ、檻に閉じ込められます。おそらく、その状態で競技場へと運ばれていくのでしょう。
 さて、彼ら猟師たちは、何も伊達や酔狂でクマを捕まえるという危険を冒していたわけではありません。当然、捕まえたクマを売って金を得ていたわけですが、では誰がクマを買っていたのか。もちろん、見世物興行を主催するローマ帝国の公職者、あるいは地方都市の有力者、大富豪たちでした。見世物興行で提供される剣闘士や野獣の数は彼らの経済力と政治力によって決まったので、多ければ多いほど主催者の力を観客に印象付けることができたというわけです。そのような主催者側の見方を伝えてくれる貴重な史料が残っています。紀元後4世紀末のローマ元老院議員、クイントゥス・アウレリウス・シュンマクスの書簡集です。シュンマクスが生涯にわたって執筆した900通以上の書簡は、彼の死後、息子であるクイントゥス・ファビウス・メンミウス・シュンマクスによって編集され、全10巻からなる『書簡集』としてまとめられました。実は、この息子シュンマクスのために、父親のシュンマクスが見世物興行を手配していたことを、書簡集から読み取ることができます。そしてその準備の最中に、クマをめぐってシュンマクスを悩ませる問題が起こっていたようです。
 まず、書簡集の第2巻76番を取りあげます。スライドに訳文を載せておきましたので、こちらをご覧ください。この書簡は、息子のメンミウス・シュンマクスが393年にクアエストルという官職に就任する記念の見世物興行に関わるものです。アンダーラインを引いたところに注目してください。「彼(すなわちドミティウスなる人物)が何度も約束し、私たちが久しく待ち望んでいる見世物用のクマが、今まさに必要なんだ。私たちが受け取った数頭の子熊は、絶食と疲労で弱ってしまったのだから。ライオンについては何も伝えられていないけれども、それが到着すれば、リビアでの戦争で不足しているクマの埋め合わせにはなるだろう」、と父親シュンマクスは述べています。どうやら、哀れな小熊たちは、ローマに運ばれていく途中に満足に食べ物も与えられず、弱ってしまったようです。実際の見世物では、野獣には獰猛に暴れまわることが期待されていました。ですから、弱ってしまったクマは見世物の役には立たない、というわけです。

 次に、その7年後の401年に開催された見世物興行に関連する四通の書簡を見てみます。この見世物興行もまた、息子メンミウス・シュンマクスが、今度はプラエトルという官職に就任する記念に開催されたものでした。一通目は、第七巻の121番です。スライドを出します。

この書簡は、パトルイヌスなる帝国高官に、見世物のために運ばれてくるクマの道中の安全を保障してくれるよう依頼するものです。興味深いのは、アンダーラインの後半部分、「ですから、それらの運搬を熱意と細心の注意をもって守り、貪欲な犯罪がクマをすり替えたりしないよう、番兵も一緒に付けるようにしてください」という箇所です。ここで重要なのは、シュンマクスが、クマが奪われるのではなくて、すり替えられることを心配している、ということです。明らかにシュンマクスは、運搬業者の不正を意識しています。なぜそう考えられるのかというと、もしクマが盗難にあったならば、その損害を賠償する責任が運搬業者にあるわけです。当然、運搬業者はそれなりの泥棒対策を講じているはずですし、そもそもクマの盗難は泥棒にとっても難しかった。ですから、犯人としては運搬業者しかいない。そして、すり替えならば、運搬業者としてはしらを切ることができるわけです。シュンマクスはそれを心配して、わざわざ帝国の高官に、公に護衛を付けてくれるよう依頼しているのです。加えてこのクマのすり替えは、クマにも商品としてのランク付けがあったことを示しています。運搬業者は、値段の高いクマを低いクマとすり替えて、値段の高いクマを転売して儲けるという不正を働いていた、と思われます。次のスライドに移りまして、書簡集の第9巻135番と、同じく142番でも同じように、シュンマクスはクマの運搬についての助力を依頼しています。

135番では、イタリア半島の長靴のかかとにあたる、属州アプーリアの総督に、クマを運ぶためのふさわしい支援を依頼しています。もちろん、道中の安全を保障してください、ということです。142番も内容としては同じようなものです。ダルマティアはアドリア海の対岸地域ですが、393年の見世物興行のときにも、この地方からクマが輸入されていました。ひょっとすると、ダルマティア産のクマはブランドものだったのかもしれません。
 また、クマの輸入に際して、いわば関税とでも言うべきものがかけられていたことが、書簡集の第5巻62番から分かります。スライドを変えます。

この書簡は、当時帝国の財政を管理する官職にあったパテルヌスなる人物に宛てて、シュンマクスの友人キュネギウスへの協力を依頼するものです。それによると、キュネギウスがクアエストルに就任する記念の見世物興行のために準備されたクマに税金がかけられしまったというのです。書簡の冒頭に言及される「我らがクアエストルの官職」とは、息子メンミウス・シュンマクスのことです。書簡の書き手である父親シュンマクスは、この前例を持ち出して、キュネギウスにも免税特権が与えられるべきである、と主張しているのです。
 このように、クマを買うにも一苦労があったわけです。この401年の見世物興行では、黄金にしておよそ2000ポンドゥスの費用がかかった、と伝えられています。井上文則先生によると(『軍人皇帝時代のローマ』203頁)、これは現在の日本の貨幣価値に換算して、およそ30億円にもなるそうです。
軍人皇帝のローマ 変貌する元老院と帝国の衰亡 (講談社選書メチエ)

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 それほどの財力を持っていたシュンマクスが、クマの運搬にあれこれ気を揉まされていたかと思うと、何だか滑稽にも思えてきます。ですが、シュンマクスは、それほどまでに大規模な見世物興行を主催した、おそらく最後の世代に属していました。というのも、見世物興行の主役であった剣闘士競技は、公式には404年を最後に、おそらくは五世紀半ばには全く廃れてしまい、同時に野獣狩りも開催されなくなっただろうと考えられるからです。そのため、クマは市民の目から遠ざかり、再び野生の動物としてイメージされるようになります。そうしたイメージがどのように変化していくのかは、他の方々にお任せしたいと思います。


7月22日追記:最後の段落について一部訂正があります。次の7月23日のエントリをご参照ください。