「イサウリア人」

足立広明「イサウリア人とビザンツ:帝国内『蛮族』の『ローマ化』と社会参加」井上浩一・根津由喜夫(編)『ビザンツ:交流と共生の千年帝国』(昭和堂、2013年)、19–46頁。

ビザンツ 交流と共生の千年帝国

ビザンツ 交流と共生の千年帝国

 本稿は古代末期の社会変容過程のケーススタディとして、小アジア南東部の住民であったイサウリア人に注目し、ローマ時代における彼らの反乱とその後の帝国への社会参加について論じるものである。「イサウリア」とは、小アジア南東部のタウルス山脈と海岸地域に挟まれた一帯のことを指す。ここに居住していた人々のうち、早くから「ヘレニズム化」した海岸地域諸都市や、ローマ時代に建設された都市の住民からは区別される存在としての「イサウリア人」なる集団が存在していた。彼らの居住地域・社会形態について確定することはできないものの、古代史を通じて、「イサウリア人」は帝国の支配を脅かし、周囲と摩擦や緊張関係を生じさせていた。ローマ史やビザンツ史のなかに彼らを位置づけようとする研究があらわれたのは最近のことである。特に論点とされたのは、彼らが「ローマ化」されたのか否かをめぐる問題であり、現在では、イサウリア人は五賢帝時代に十分に「ローマ化」されたとみなされている。しかしこの考え方には、イサウリア人をローマ側の視点で語っているという欠点がある。イサウリア人社会の変容を見直すためには、これまで「ローマ化」の事例とみなされたきた史料を、彼らが周辺環境の変化にどのような対応を取り、その結果として継続的に自己を変容させていった事例として読み直す必要がある。
 イサウリア人がローマ支配下に一応入ったのは前一世紀後半のことだが、ローマは彼らを藩王国に委ね、間接統治を試みた。紀元後一世紀にはたびたびローマ軍の出動を要するほどの反乱が生じたが、その後三世紀末までは反乱が生じなかったと考えられており、この時代にイサウリア人は「ローマ化」した、とみなされている。「ローマ化」概念の是非をめぐっては議論があるものの、ここでは街道や都市建設の進展の度合いを指すものとして用いられる。碑文史料からは、彼らが「ローマ化」を歓迎していたと解釈できる要素も見出せる。しかし三世紀後半には、ササン朝ペルシアの侵攻を受け、彼らは生きるために再び略奪を行なうようになった。この時までに彼らの社会は、富裕層を頂点とする構造を形成させており、組織的な略奪行為を働くことが可能であった。また彼らの指導者層は、自らの地位と経済状況維持のため、時には帝国とも交渉を行なった。彼らはもはや単なる略奪集団ではなく、階層秩序を備えた一個のまとまった集団であった。
 こうした背景から、やがて帝国内で立身出世するイサウリア人が現れる。四世紀末には帝都防衛のためのイサウリア人部隊が創設され、五世紀半ばにはその指揮官フラウィウス・ゼノンが帝国政治に大きな影響を及ぼした。その次の世代には、イサウリア人タラシコディッサが同じくゼノンを名乗り、遂に皇帝の座にまで上り詰めた。彼の治世は内憂外患に悩まされたが、473年から491年まで、彼は東帝国を防衛し、安定化へと向かわせる道筋をつけたと評価できる。
 ゼノン帝の死後、間もなくイサウリア人は中央政界から姿を消すことになる。次代の皇帝アナスタシウスはイサウリア人の排除を試みたため、イサウリア軍事貴族の反乱を招いた。結局492年、イサウリア反乱は鎮圧され、彼らの多くはトラキアに移住させられたという。文献史料に基づく研究においては、この492年は一つの終焉として扱われている。しかしながら、近年の考古学的知見は、イサウリア地域における村落の継続的発展を明らかにしている。それによれば、五世紀末の破滅をうかがわせる証拠は存在せず、むしろ四世紀から六世紀にかけて、村落は順調に発展していた。見事な教会や修道院建築が遺されており、また当時の生活遺物からは、人々が半農半放牧の生活を営み、時代の変化に対応していたことがわかる。文献史料からも、イサウリア人兵士が華々しくはなくとも重要な役割を果たし、またイサウリア人は技術者としても活動していたことが知られている。たとえ中央政界での活躍が見られなくなったとしても、イサウリアの人々は彼ら自身の社会を維持し、帝国に参加し続けていたのである。彼らは文献史料においては「山賊」「蛮族」というレッテルを張られているものの、彼らのような人々なくしては、ビザンツ帝国の生存と発展はなかったと評価できる。